人に自分のことを良く思われているのが心配になることは、
ないですよね。
絶対にないとは言いませんが。
心配になるとしたら、普通は、
人に悪く思われているのではないか。
相手に迷惑をかけてしまったのではないか。
そのあたりが、気になると思います。
たとえ、相手がこちらに善意や好意を持っていたとしても、
こちらは、その人のことを、信じ切れていない。
その人が、自分のことを悪く思っているところがありはしないかと、
疑っているわけです。
自分は、その人のことを疑ってしまう。
しかし、その人からは、悪く思われたくない。
人間には、そういう癖があると言えましょう。
徐々に、克服出来れば、世の中が違って見えるのでしょうね。
たとえ自分は疑われても、相手のことを信じる。
こんな風になれたら、すごいですね。
ひとまず、相手の方にこちらに対する善意や好意があれば、
そのことに心を開いて、それを受け入れることが出来れば
よいでしょう。
心を閉ざしてしまわずに。
究極的に、人に対しては、どのように接すればいいのか。
相手の純粋な部分と、不純な部分を、両方見極める。
これが、本当の洞察というものではなかろうかと、思います。
精神医学の範疇を飛び越えてしまうかもしれませんが、
イエス・キリストが、聖書の通りの人だったとしたら、
まさに人を洞察する達人だったのだと思います。
キリストが誰かにだまされて、人間不信に陥ることは想像出来ません。
最後の晩餐の時にも、参加者の誰が自分をこれから裏切るのか、
キリストは全てお見通しだった。
どうやったら、あんな風になれるのでしょうかね。
純粋な観察力が必要ですね。
私たちは、随分と濁ってしまっていますからね。
例えば、私は先月倉敷の居酒屋に飲みに行きましたが、
酔っ払いすぎまして。
電車で岡山駅まで帰ってきたのに気づかずに眠っていて、
駅員さんに起こしてもらいました。
「やべえっ!」と気づいて、礼も言わずに電車を飛び降りて
一目散に帰宅しました。
あとで考えると、岡山駅止まりの電車で、良かったです。
こういうことをしていると、濁ってしまうでしょうね。
皆様も、どうぞお気をつけ下さい。